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国道九四フェリー 第一豊予丸 S.44.04.
四国最西端・佐田岬半島の魅力を発信!
25.3.2
数年ぶりに更新をさせて頂きますね(*^-^*)
とある方の佐田岬紹介動画です。
今回の動画・・・・佐田岬先端までいらしたのですね。凄い!
公共交通路が通っていないのに、どのようになさるのかな?・・・と当初、思ったのでした。(私が居た頃. 昭和40年代には三崎港~串港まで航路が有りました)
与侈(よぼこり)・・・・標識に懐かしき地名を拝見することが出来ました。
そして三崎で一番、心に残っているのは伽藍山の姿ですが、今もステキですね.。 ちなみに三崎中学の遠足では定番の当地でしたが、今もその風景が蘇って参ります。
23.03.21
何気にヤフオクを👀・・・ました
鉄コレ、バスコレ・・・・色々なモノが販売されている(いた)のですね。(*^-^*)
上段のオレンジ色のバスですが、懐かしい~!昭和の頃のカラーリングですよね。デザインから察しますに昭和40年頃でしょうか?
ちょうど私と父母が三崎で生活していた頃に、利用させて頂いたバスではと。
当時は国鉄・八幡浜駅前~三崎港前まで所要3時間(三机経由便は30分増し)のバスの旅でしたが、その後(伊方原発の見返りで建設された頂上ラインのお蔭で)1時間少々で行けるようになりましたね。
下段のカラーリングですが、特急バス便用でしたか?
頂上ラインが完成後は松山から三崎行きの直行便が出来ましたね。
更には、このようなお品も。
いつ頃に使われていたお品でしょうかね~?(*^-^*)
コロナ禍も収束(終息だとイイのにね)…傾向となりましたが、生きてる間に三崎再訪を是非とも!・・・と考えています。
22.05.01
三崎中学の仲間💛
今日は、もう5月になりましたね。
GW真っただ中・・・民族大移動(死語かもね?)で、JR,高速道は混雑している事でしょうね。
私は昨日は夜半過ぎまで👀・・・&今朝は超早起きに。
三崎の思い出の続きを、書かせて頂きたいと存じます。
昭和44年の春から三崎での生活が始まりました。(過去の当サイトでの情報と重複する箇所が有るかと思いますが、どうかご容赦の程を)
三崎中学の事、ああ~本当に懐かしいです。
木造平屋建ての校舎&1年生だけ(教室が足りなかったのかな?)隣に新築された三崎小学校の校舎を間借りしていたかと?
でも(多分)2年生からは本来の中学校の校舎で。
今から10年以上前の頃には、ネット検索すれば・・・当時の三崎中学の校舎の画像、航空写真等の情報を見ることが出来たのですが、残念ながら・・・
三崎町は10数年前、西宇和郡の残り3町(伊方町と瀬戸町。そして保内町は八幡浜市に合併)との合併をされたようでして・・・・”伊方町三崎”に変わりましたが、それ以前のHPの画像がネットに残っておりました。(*^^)v
校舎の姿は”昭和の平屋建て”では有りませんが、背後の伽藍山の姿は当時のままですね!嬉しい!
(ここからは実名で・・・どうかお許し下さいね)
三崎中学の1年生・・・2学期からは(父の病気治療で西条市内の中学校に転校で)メチャクチャな状況に陥ってしまい、記憶が曖昧になってしまいました。
これからは(多分)2年生の時の記憶ではと存じます。
2クラス有りまして担任の先生ですが、1組は(私が居ました)中井年子先生、そして2組が中林先生。(愛称、ちゅうりん先生)・・・イケメンの先生でしたね。
1組のクラスメートですが・・・
井上さん(お父様、校長先生でいらしたですね、その後、如何お過ごしでしょうか?)
田中くん(その後、大分にお住まいになられた事、中井先生から伺いました)。
九鬼くん(お父様が伊予銀行にお勤めで三崎に転勤なさいましたですね)。
土居さん(ご両親様が商店街で薬店経営をなさってましたね)。
梶谷さん(運動神経抜群の素敵な貴女でしたね、50m走、一緒に走らせて頂きましたが、貴女が遥か前を走られましたね)。
小田さんと玉井さん(とっても仲良しな、満面の笑顔のお二人でしたね)。
そして2組には山下一生くんが。
面と向かってお話しさせて頂いた事は無かったですね。でも優秀な山下くん、学校が終わればご家業のお手伝いを!
実はクリスマス会?・・・で井上さんのお宅で楽しませて頂いたのですが、その帰り、偶然にも山下君のお姿を。
出来屋商店の藍染の前掛けをされて・・・お酒?の配達をなさっていらしたですよね。
その他にも沢山のクラスメートが・・・・お名前を思い出す事が出来ませんが、今も楽しい思い出が。(*^-^*)
皆さん、今、何処でお過ごしでしょうか?
ところで・・・三崎高校赴任直後、私の父が突然、体調を崩しまして。
進行胃がんとのご高診を賜り、即、大阪の病院での治療となりましたが、幸いにも命を取り留めることが出来ました。
実は、同町内でご開業なさっていらした門田先生のお蔭でして。確か奥様も、院長先生とご一緒に診療をなさっていらしたかと。
門田先生にはお二人のお嬢さまが。現在も門田医院様、ご開業なさっておられますね・・・・
三崎中学校での記憶・・・・木造の校舎、屋根裏に野生の鳩が紛れ込んでた記憶が。
横長の校舎ですが、北側にストレートな廊下が。そして各校舎、南側の木製窓の外側には戸袋が有り、その中には雨戸が。
さすがに私が通学していた時には、雨戸が使われたことは有りませんでしたが・・・その後、台風の来襲で大変な被害が有ったですね。
校舎の端っこには渡り廊下で別棟の建物に。
ここは音楽室になっていましたですね。・・・・校歌、懐かしいなあ~!
さんちゅうせい(三中生)、さんちゅせい、さんちゅ~せ~い、わ・・れ・・ら!♪
22.04.29.02
三崎~八幡浜のバスの旅
今ごろは動画が流行りですよね、検索すれば色々な動画を楽しませて頂く事が出来ますね。
ところで私が三崎に居た昭和40年台当初・・・・三崎~八幡浜のアシですが(運転免許の無かった父のお蔭で)公共交通のお世話になっていました。
旧道 国道197線を延々と走る伊予鉄バスと佐田岬に沿った地区を結ぶ船(ひょっとしたら舟かな?) そして便数は限られますが宇和島・八幡浜~別府航路の客船が有りました。
船ですが、1度だけ乗った記憶が。早い時刻に八幡浜に行く必要が有る時には唯一の選択肢でした。
(バスの便は、八幡浜までの所要時間が3時間でして、どうしても遅くなりまして)
英語の試験?・・・・が八幡浜近くの町の中学校で開催されるとのことで、夜明け前の船:八幡丸に数名の友人と一緒に。
小さな船でして客室・・・程々の広さの広間に座って過ごすだけなのですが、その位置が船の喫水線よりも下(水面下💦)でして。
肝心の英語の試験結果の事は忘れ去ってしまったのですが、↑このことは(完璧なかなづちの私には)鮮明なる記憶に残っています。
さてさて脱線しちゃいましたが、本題に戻りまして。
メロディーラインの完成で、三崎~八幡浜は1時間少々で行き来出来るようになりましたが、旧道経由のバスの便も存在していたようでした。
でも、利用者の減少に伴い旧道経由の便は廃止されたようです・・・
バスの動画、いくつもup されていましたが。
私的には、三崎→八幡浜便の動画がベストでして、いくつかの動画のカット画面を拝借させて頂く事に。(別途、4Kの八幡浜→三崎便のご紹介を)
三崎港フェリー乗り場からの出発ですね。(以前は海だった所でしょうかね、埋め立てをして新しく桟橋を)
実は、私が三崎再訪を考えているのですが。
広島港~松山観光港~松山市駅からは(JRは利用せずに)このバス便の利用を考えていました。
ちなみにバス・前面のイカツイ固定具は?・・・即、検索をしてみました。
昨今は、自転車の積み込みがOKなバス便が有るのですね!
バスは車高が有りますので、このような積載法がOKなのですね。
ですが、実際の利用度は如何なモノなのでしょうか?
佐田岬の山々の頂上部辺りを走行しますので、向かって右側(宇和海)と左側(伊予灘)の両方の風景を楽しめます。
こちらは宇和海の景色ですが、遥か向こうは愛媛県・八幡浜~宇和島市に至るモノでしょうか。
こちらは伊予灘側の風景ですが、以前にも申しました三机湾ではと存じます。
八幡浜市街地まで参りましたですね。
みなと交流館・・・初めて知りました。
八幡浜市は漁業が盛んでして、新鮮な魚介類に恵まれているのではないでしょうか・・・どーや市場、どーや食堂、興味津々ですね。
スーパーフジですね。
ちなみに広島県にも(海を越えて)フジグループが進出をしておりまして、地元ゆめタウンと熾烈な争奪戦を。
頑張れ、フジグループ!
右向こうは終点のJR八幡浜駅前ですね・・・・
とても懐かしい画像を有難うございました。
JR八幡浜駅ですが・・・・昭和40年時の趣きが、そのまま残っています。嬉しいなあ~!
一方、駅前の景色ですが。
向かって右端の道路・・・・若干、道幅の拡張が有ったでしょうかね?
三崎、そして八幡浜・・・・是非とも!再訪をさせて頂きたいモノです。
22.04.29
Y君の思い出
今日からGWスタートしましたが、残念ながら雨の当地です。
オトナシク自宅に留まっていますが、朝っぱらから全身所毒のスタートを!
三崎のコーナーを作らせて頂きましたが・・・急激に懐かしい思い出が湧き上がって参りました。
私が中学1年生~2年生の間の、たった2年間の出来事でしたが、歳を取るに従って、益々当時の思い出を強く感じて来るのでした。
両親も亡くなり三崎の思い出話しをする相手も無くなってしまいました。
残念ながら(当時、反抗期真っ盛りだったこの私)写真が趣味だった父の写真撮影も拒絶して、三崎時代の写真はゼロ。
とても悲しい事ですが、三崎の思い出は・・・唯一、私の記憶のみでして。でも、これもエエ加減なモノでして、最近は私の脳ミソも崩壊の一途!
SNSの場合、極力プライベートの類は灰色で済ませるのが私の考えなのですが。(でもどのサイトでも読み進めれば、自ずとそのお方のアウトラインは判りますよね)
↓の中で三崎の旅館Sさま、そしてSさまのご親族のY君。
(間違ってたらどうかお許し下さいね、20数年前に出来屋商店にお伺いした時にお会いしたY君の奥様、ひょっとして同級生のOさま・・・ではないでしょうか?)
Y君、唯一の現実に存在する三崎の思い出は、貴方しか居ません。どうかこの場でご紹介させて下さいませ。
一生君、是非ともいつかお会いしてお話しさせて頂きたいのです。
22.04.28
三机の思い出を・・・・
佐田岬半島のほぼ中間地点の瀬戸内海側の集落に三机地区がございます。
フッと当時の三机の事を思い出したもので、書かせて頂きました。
22.04.27
もう50数年も前の出来事です・・・・
これまでにも、時に書かせて頂きましたが三崎の思い出…尽きることはございません。
高校で生物の教員をしていた父の転勤で昭和44~45年・・・たったの2年間でしたが(その間、父の病気療養の為、数回の転校を繰り返しました)色々な事が鮮明に、記憶に残っています。
小学校6年生になる迄、何の不自由も無く能天気に育って来たこの私。
歳の離れた末っ子でして、9歳年上の兄から「お前はエエナア~!」と幾度となく言われて来た言葉でした。
中学校に進む予定で、小学校からの友人とは皆、一緒!ルンルン気分で過ごしていた3月の下旬・・・・突如、父が三崎高校への転勤命令が!
私が生まれる年に引っ越して来てた家の荷物を片付けて荷造りを、そして転居・・・・その間に与えられたのは僅か2週間でした。
今の様に引っ越し業者さんが居る訳でも無く・・・全て私達、3人の家族のみで。(兄、姉は関西にて生活を)
空の段ボール箱は、ご近所の八百屋さん、薬店などにお願いしてリヤカーに積んで持ち帰りました。
箪笥のような大きなモノは段ボールで外周を覆って、その上から木枠で囲み、最後は荷ひもで固定を。
12年間住んでいた家の中には山のような荷物が有りまして、余計なモノは捨てまくりましたが、結局、みかん積載用の10tトラックに満載状態に。
休む間もなく、午後8時過ぎの列車で八幡浜に。
ここから24時発の別府航路の旅客船に乗る予定でしたがあいにくの欠航でして、仕方なく陸路をタクシーで。
佐田岬は愛媛県八幡浜市から西方に向かって伸びる、50km程の半島です。
昭和52年に半島・基部辺りに出来た伊方原発・・・・そのお蔭で半島の山々、その頂上部分を結ぶメロディーラインが完成後は車で1時間ほどで三崎迄行く事が出来るようになりました。
でも、当時はそのような夢のようなモノも有りませず・・・リアス式海岸を走る、狭い小径(一応は国道でして)を延々と。
メロディーライン/ 国道197号線(通称:イクナ線💦)
人家を過ぎれば、タクシーのライト以外に灯りはゼロでして、一体、何処を走っているのか?・・・でして、途中から私は車酔い状態に。
結局、夜半過ぎに三崎町内の旅館に到着したのでした。
翌朝、旅館からの眺めに・・・衝撃でした!!
3方は山に囲まれ唯一、西方のみが海に・・・・・そしてその遥か彼方には(大分県)佐賀関市に有った精錬所の煙突が見えていたのでした。
旅館で支度を済ませて、急いで官舎まで参りますと既に引っ越しトラックは到着しておりまして。
当時の三崎高校は三崎中学・小学校と道を隔てた反対側(現在の役場支所)に在りましたが、高校官舎は中学校から50mほど北に進んだ山際に。
人がすれ違う事の出来るような小道しか有りませんでした。
トラックから降ろした膨大な荷物は人海戦術で運び上げて下さいました。
官舎の中には山のような段ボール箱と大きな木囲いの荷物とが・・・
その後の荷物の片付けですが・・・専業主婦の母が少しずつ仕分けして行ったようです。
私の方は、見知らぬ人ばかりで新学期が始まってからは緊張の連続でした。
これまでの西条市内の街中の生活環境とは大違い!・・・・驚くばかりの日々でした。
追伸:
昨年末に、現在、私がハマっている宮島徘徊と三崎の関連を書かせて頂きました。
かなりの部分、こちらの内容とダブってしまいますが、ご覧頂ければ幸いです。